オハイオ州シンシナティ出身。父はシンガー、母はピアニストというアイズレー一家の息子たちが結成したグループである。その歴史は古く、かれこれ半世紀になろうとしている。
56年結成。57年にニュージャージのティーネックへ移住。三男ロナルド(Ronald Isley 1941年5月生)をリードヴォーカルに据え、4つ上の長男オーケリー(O'Kelly Isley, Jr.)、2つ上の次男ルドルフ(Rudolph Isley)、弟のヴァーノン(Vernon Isley)のカルテット・グループとしてスタート。直後ヴァーノンを交通事故で失うものの、59年にトリオとしてRCAから正式デビュー。「Shout」「Twist & Shout」など徐々に知名度を上げていく。また、65年にモータウン(Motown)からリリースした「This Old Heart Of Mine(Is Weak For You)」は、ホランド=ドジャー=ホランド(Holland-Dozier-Holland)のプロデュースの力もかり、USチャート12位を獲得獲得。人気をあげていく。
64年に一度立ち上げていた、自身のレーベル“T-NECK”(当然移住先の地名にあやかっている)を復活させた69年頃から、グループに弟たち(アーニー(Ernie Isley)、マーヴィン(Marvin Isley)、従兄弟のクリス・ジャスパー(Chris Jasper))が楽器隊として参加するようになる。
73年にリリースした『3+3』で6人組となり、セルフ・コンティエンド・グループに昇華していく。いわゆる第2期のスタートである。このCBSに所属していたころの勢いはすごい。左記のディスコグラフィーを参照して欲しいが、年1枚のペースで作品を出し続け、さらにヒット曲も量産している。「That Lady」(R&B#2、POP#6)を皮切りに、「Fight The Power」「The Pride」「Don't Say Goodnight」など挙げたらきりがない。そして極めつけは名曲「Between The Sheets」へ至る。
しかし、この頃「楽器隊への評価が低い」などを理由に、クリス・ジャスパーを中心とした年少組3人はグループを離れ、アイズレー・ジャスパー・アイズレー(Isley Jasper Isley)を結成。以後3枚のアルバムを残す。一方年長3人は、グループを継続。ヴォーカル・アルバムとなった『Masterpiece』リリース。が、86年春、オーケリー、心臓発作にて死去。ふたたびグループに危機が訪れる。
その危機を救ったのは、リネイ&アンジェラ(Rene & Angela)で活躍していた才女、アンジェラ・ウィンブッシュ(Angela Winbush)であった。そしてこの出会いが、第3期の幕開けともなった。彼女はアイズレーのフリークであったことから、すぐに“アイズレー色”の楽曲を提供。87年『Smooth Sailin』(リリース後、ルドルフは聖職者に転進のためグループを離れる。)で、その後のアイズレーの方向性を導いた。こうして、ロナルドとアンジェラは公私ともにパートナー(残念ながら04年に離婚)として活躍していく。92年にはグループを離れていたマーヴィンとアーニー2人の弟たちを呼びよせた。
この頃から、アイズレー・マナーに注目が集まり始める。カヴァーやヒップ・ホップでサンプリングされたりすることが多くなったのだ。また、アイズレーズを聴いて育った子どもたちが成長し、シーンに出現し始め、再び人気が高まってくる。
96年には、その世代(若手)のプロデューサーを多数起用した名作『Mission To Please』が完成する(この後、マーヴィンは糖尿病をわずらい、両足切断というハンディを背負うことなり、グループから離れる)。その若手の中でも一番の理解者は、いうまでもなくR.ケリー(R.Kelly)である。クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)のアルバムで競演したのをきっかけに、お互いのアルバムで協力しあった。その結果、21世紀にリリースの『Eternal』『Body Kiss』では、相当数プロデュースしている。その結果、『Body Kiss』は『The Heat Is On』以来、28年ぶりにUSチャートを制している。
続く06年作の『Baby Makin' Music』では、前作の成功にも関わらず、淫靡色を減少させ、爽やかになりすぎない作品をドロップ。当然のようにR&Bチャートを制した。
グループとしては、それ以降作品はリリースされていない。しかし、ロナルドはソロ作を2枚リリースしている。特に13年の『This Song Is For You』の出来栄えは出色。まさに現役バリバリのレジェンドなのだ。
(2005.11.25/2014.12.21 )