1971年、シカゴのウエスト・サイドのゲットーで、牧師の家庭に誕生。2歳にしてTVCMの曲を口ずさみ、7歳でゴスペルを歌い始める。12人もいる兄弟の中で、とりわけデイヴが音楽の才能を持っていると思った父親は、熱心にオルガンを教え、クワイアにも参加させた。しかし、ゲットーという生活環境もあり、思春期は少々ヤンチャをしていた様子。それを反省し、正しい道へ戻るために、ヴァネッサ・ベル・アームストロング(Vanessa Bell Armstrong)のバックコーラス隊、つまりレッキン・クルー(Wreckin Kru)の一員となった。
1980年代末、グレン・ジョーンズ(Glenn Jones=義理の兄らしい!)と仕事をするためNYへ移住。そこでパフィ(Sean Combs=当時はアップタウンのA&R)と出会い、パフィの実家で生活をしていたこともあった。
1990年、グレン・ジョーンズ『All For You』のツアーで来日。同時期に来日していたヒップホップ・グループ、デジタル・アンダーグラウンド(Degital Underground)と親交を深める。それを気にストリートとの距離を縮め、フォース・ワン・ネットワーク(Forth One Network)のリード・ヴォーカルとして迎えられることになる。しかし、1stのみ参加し、グループを去る。
再びコーラスとして活躍することになるのだが、そのころにテディ・ライリー(Teddy Riley)と邂逅。ブラックストリート(Blackstreet)のメンバーに誘われる。1st『Blackstreet』はダブル・プラチナを獲得。いよいよ全国区の存在になる。ところが1996年、またしてもグループを脱退。再び一人に戻ってしまう。
その後、ソロ・アーティストとして、エリック・サーモン(Erick Sermon)が取り仕切る”デフ・スクワット/ドリーム・ワークス”レーベルの第1号アーティストとなり、映画のサントラなどにソロ名義で活躍することになる。1999年、満を持して『Ghetto Hymns』にてソロ・デビュー。「My Favorite Girl」がR&Bチャート10位を記録した。1年後にはスティーヴ・ハフ(Steve Huff)、ア・タッチ・オブ・ジャズ(A Touch Of Jazz)、マイク・シティ(Mike City)らを迎えて『Chicago '85...The Movie』を発表。名曲「One Woman Man」が誕生する。
その後も順調にソロ作品を続け、5th『The Book of David: Vol.1 The Transition』をリリースしたのが2006年。今までの活動から考えると、比較的順調に音楽活動をしてきていた。しかし、この頃から現行R&Bシーンへ興味がなくなったことを告白し、テネシー州で牧師へ転身してしまう。表舞台には出てこないのかと心配したが、音楽への愛着は変わらなかった様子。2008年にゴスペル作品『Witness Protection』をリリースしてくれた。
2011年、再びテディ・ライリーらと結集し、ブラックストリートを再結成。世俗音楽に復帰を果たす約束を発表してくれた。BS2として、果たして本当に新作を届けてくれるのだろうか。
ブラックストリートのアナウンスは継続されているようだが、その最中に、コミッションド(Commssioned)でおなじみのフレッド・ハモンド(Fred Hammond)のアルバム『United Tenors』に参加。どうやらゴスペル界と世俗界の教会で浮遊していきたい様子。つかず、離れずの彼らしいところと言えるのだろう。
ちなみに、前出のとおり、グレン・ジョーンズは義理の兄。また、ソロで作品を残しているジェシ(Jesse Campbell)は義弟。ケイシー&ジョジョ(K-Ci&Jojo)は従兄弟。まさしく、音楽一家の出である。
(2011.11.03/2014.11.03)