オハイオ州クリーヴランド出身。両親・弟・妹という5人家族全員が楽器が弾けるという音楽一家に育つ。牧師である父の影響で、4歳から教会で歌い始め、14歳まで弟を含めた、ブラザーズ・オブ・クライスト(Brother of Christ)として活動していた。大学はコンピュータ科学を学ぶため、デントンの州立大学へ進学する。しかし、音楽への情熱がバークリー音楽大学への転校を促した。ジャズ、ハーモニー、ゴスペル等の専攻だったようで、彼のジャズ・フレイヴァーはこのあたりから影響されていることがうかがえる。同じクラスメイトとなったジョシュ・ホニグストック(Josh Honigstock:オーストラリア出身)との出会いはこの時である。
大学卒業後、シンシナティのインディ・レーベルでプロデュースの仕事が決まる。それがルネッサンス(Renaizzance)の『Rebirth Of Soul』(1995)である。(筆者も未だ手に入れておりません…)。この経験がドゥルー・ヒル(Dru Hill)のデビュー作にして名曲「Tell Me」を産んだといえるだろう。そのような裏方業を行いつつ、アーティストとしての活動はほとんどがホテル廻り。ヒット曲をカヴァーして歌っていたようだ。その様子を見たスタンリー・ブラウン(Stanley Brown)が声をかけ、ようやくディールを得る。前出のドゥルー・ヒルの仕事はおそらく彼の繋がりによるものだろう。
アイランド・ブラックでは、ドゥルー・ヒルのほかに、オムニバス・アルバムへの参加などを経て、98年にようやく1st『Destiny』をリリース。さあこれから。誰しもそう考えた。しかし、レーベルの経営は思わしくなく、プロモーションもままならなかった。売上もそこまで伸びることもないまま、レーベルは閉鎖してしまい、マイロンは仕方なくNYから故郷オハイオに戻ることになる。
「レーベルが閉鎖した直後はガッカリしたと同時に、音楽業界にうんざりした気持ちになってたよ。自由な創造とは程遠いものだった。もうミュージシャンとしてのキャリアを諦めようと思ってたこともあったんだ」(『bmr』2004.08)
と本人が語っているが、それを思いとどまらせたのは盟友ジョシュ。ふたりで曲を書き始め、その後彼ら自身のレーベル“Moja”を始めた。そして2nd『Free』をリリース。ようやく自分自身が“自由に”音楽を創作する環境を手に入れた。
2008年にはミシェル・ンデゲオチェロ(Meshell Ndegeocello)も参加したバンドを結成し、ライブ・レコーディングした『Myron & The Works』をリリース。極上のグルーヴ感が話題となった。
(2010.08.07)